kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

三国志演義 関羽神・2

いやー!暑い!熱く!三国志を回想します。

☆前回からの続きでございまする。

─徐州で劉備軍は曹操軍の猛攻に遭い、みな散らばり関羽だけが下邳に取り残され、曹操は関羽に降参するよう説得を張遼に託す。関羽は3つの条件を出し、それが聞き入れないなら降参はしないとした。困惑した曹操に張遼(ちょうりょう)は今度曹操を説得し、関羽は形上曹操に降ったことになる。しかしその3つの条件を果たし曹操に恩を返したために別れを告げることになった。


五関に六将を斬る(ごせき ろくしょう きる)

関羽に反感を持つ、曹操の将、 蔡陽 (さいよう)が追いかけようとするのを止めて、曹操は「関羽を行かしてやれ」と度量を示した。曹操はもはや関羽を引き止めることはできないと悟ったのだった。

曹操は張遼らを引き連れ関羽に追いつき、錦のひたたれを贈りその旅立ちを見送った。

先行した夫人達は山賊に襲われるが、廖化(りょうか)によって救われている。その後胡華という老人から息子胡班への手紙を預かる。

東嶺関 (とうれいかん)(第一の関所)では手形を持っていないため、やむなく守将孔秀を斬り、洛陽の太守韓福とその部将孟担も次の関所で殺した。その際に韓福が放った矢を左腕に受けた。

次の 沂水関 (ぎすいかん)では、鎮国寺の僧侶普浄のお陰で大将の 卞喜 (べんき)を倒した。滎陽の王植の「関羽をころせ」という密命を受けた胡班は、関羽の人物に敬服し、父からの手紙も渡された為に関羽を逃がした。王植は槍で打ちかかってきたが、簡単に斬られる。黄河の渡し口の関所では夏侯惇の部将 秦琪 (しんき)が待っていたが、これまた関羽に首を斬られる。

これで五関に六将を斬ったことになる。一騎討ちに関しては関羽無双ではないか。

そして関羽の元に孫乾が訪れ、劉備が袁紹の元から脱出し、 汝南 (じょなん)に身を移したことを聞き、向かおうとするところへ、またも魏軍が来る。

それは夏侯惇で、部将を斬られたとあってはただで治まるはずがなかった。しかしそこへ張遼や使者達が駆けつけ、曹操の公文を届けてきた。

夏侯惇は「秦琪は蔡陽の甥で、わしが預かっていたのだ」と言うが、張遼が間に入り一応の納得をさせた。関羽と張遼は互いに命の恩人と相思い「義」を果たすというところが漢の中の漢を魅せてくれる。

道中雨にやられ、郭常に泊まったが郭常の息子に赤兎馬(せきとば)を盗もうとした息子に関羽は諭す。

そして山賊の頭だった周倉(しゅうそう)と出会う。以後周倉は関羽と同行し、関羽の下につく。さらにまた数日後離れ離れになった張飛と古城で再会するが、張飛は「曹操に降った裏切り者め」と怒って信用しない。

曹操が「関羽を行かしてやれ」と言われた蔡陽は、その意向をずっと不満に思っており、曹操は何か役を与えてやれば気持ちも収まるだろうと、汝南の劉辟(りゅうへき)の討伐の指示を与えられた蔡陽が偶然にやってきたのである。

関羽は張飛の前で蔡陽を斬ってみせ誤解を解く。そこに糜竺(びじく)糜芳(びほう)の兄弟が合流する。劉備の居所を訪ねている際、関定という老人の家に泊まる。そこで関定の次男関平を養子にするように関定が仲立ちをする。古城でとうとう劉備と会うことになり、さらにそこで趙雲とも出会い、一同再会を喜びあった。


赤壁の戦い

建安十三年(207)いよいよ赤壁の戦いを迎えるが、真っ先に関羽は外される。何故ならば曹操に以前恩恵を受けているから、きっと関羽は曹操を見逃すだろうと、孔明に言われ、関羽は「万が一曹操を見逃した場合は軍律に照らして処罰して欲しい」と誓紙を書き五百の突撃隊を率いて華容道(かようどう)に出向く関羽。

劉備は「あのようにしても見逃すだろうな」といい、

孔明は「天文をみまするに曹操の命数はまだ尽きていませぬ。ですから、それで関羽に義理を果たせておけば良いでしょう」といった。

この一連の流れは曹操を必ず倒すべきであるならば、張飛か趙雲を送ればよいものをわざわざ送らなかった。そして関羽は誓文を書いてまで曹操を討つ決心をした。神の如く先を見通してしまう孔明、戦乱のさなか義理を突き通し重んじた関羽。その両方を描くとこのようになる。

そして赤壁の戦いで敗れた曹操が敗軍を率いて 烏林 (うりん)から華容道に逃れてくる。

孔明はその退路を断つべく、要所要所に張飛、趙雲を配した。曹操はこの孔明の張った罠にはまり、行く先々で、張飛や趙雲からの部隊の襲撃を受けることになる。ようやく血路を開いて辛うじて残った疲弊しきった敗残三百騎あまり、そこに両側から砲声とドラがドーン!と鳴り、五百の突撃隊が現れ、正面には大将の関羽が青龍刀をさげて、赤兎馬に跨り、行く手を遮った。

その関羽を見てもう駄目かと思い、肝を潰す曹操だった。

しかし謀士の程昱(ていいく)が「それがしは、雲長は上の者には傲慢だが下の者には憐れみ深く、強者は馬鹿にするが弱者は虐げない男だと、よく知っております。恩と恨みははっきり区別し、その信義の厚さはもとより明らかです。丞相は昔彼に大恩を施してらっしゃるのですから、今、丞相が情に訴え恩義を持って情に訴えればこの危機を脱することができましょう」と進言する。

曹操はその言葉に従い、馬を走らせ身を屈めお辞儀をして関羽に話す。

「将軍、一別以来、お変わりはないか」

関羽も身を屈めお辞儀を返して言った。

「それがし軍師の命を受け、久しく丞相をお待ちしておりました」

「わしは戦いに敗れ危機に陥り、事ここに至ってはもはや逃れる道もなし。どうか将軍には昔のよしみを重んじてくだされ」

「いかにも昔、それがし丞相より大恩を被りましたとはいえ、顔良、文醜を討ち取り、白馬の戦いにて危機を救ったことで、既にご恩返しさせて頂きました。今日のことにつきましてはどうして私情により公事を廃することができましょうぞ」

「体調を崩して弓を取れない 子濯孺子 (したくじゅし)を、弓の孫弟子にあたる斯 庾公之子 (ゆこうしし)(やじり)を抜いた矢を四本射掛けて見逃した故時故事(こじ)(昔あったこと)はご存知であろう」(「孟子」離婁篇より)と曹操は語りかけた。

すると関羽は五関に六将を斬った時のことを思い出し、さらに曹操軍の兵達の怯えきった顔と涙をする姿を見るとたまらなくなった。

自軍の突撃隊に「散らばり路をあけろ」と号令をかけ命じた。

これは曹操を逃がそうとした行為である。曹操は関羽が馬をかえしたのを見るとすぐさま部隊たちと共にどっと突き進んだ。関羽が振り向いた際には、曹操と部隊はすでに囲みを通過した後だった。許田の巻狩り(きょだ まきがり)の際、献帝をないがしろにする曹操に斬りかかろうとした関羽のあの姿は、もう失われていた。

(ここで曹操が関羽に持ち出した『春秋』の挿話は春秋時代、(えい)(てい)の両国が戦った時、鄭軍の大将の子濯孺子が病気で弓を手に取れなかったところ、彼の弟子から弓術を学んだ経験を持つ衛軍の大将庾公は、病んだ孺子を射殺するに忍びず、鏃を抜いた矢を四本放って、戦場を離れたというものである)


そのあとからも逃走して来た張遼の軍も見逃し、結果何ひとつ得ずに帰順すれば、祝勝の宴の最中。

孔明は誓紙に従い即刻に首を打てと命じるが、劉備が急いでそれを止め死罪は免れた。孔明と劉備は互いにこうなる事を知っていたが、他の将軍らに対して示しがつかないのでこうした手順にした。

この一連の流れは演義においてとてもうまく良く出来ていて評価されていると思う。関羽は桃園の誓いをした劉備と張飛と義兄弟であるが、また関羽と曹操と張遼もまた裏で深く結びつけられており、この華容道については特に関羽と曹操の関係性が信義に重んじ、互いに行動するところが、周到に描かれている。

関羽は曹操のことを「賊もの」扱いと一切罵倒(ばとう)しなかったし、曹操も戦場では関羽のことを、一御大将(いちおんたいしょう)と見ていて味方側近からも、大王は何故あのようにいつも関羽にたいして恐れるのか?と不思議に見られていた。それは互いに尊敬の意を持っていたからゆえであろう。しかしそうならば関羽だけが神と崇められ、曹操は神ではないのか?


関羽荊州城陥落(けいしゅうじょうかんらく)

劉備の入蜀には抵抗が大きく、苦戦しながら進めたが落鳳波(らくほうは)で軍師中郎将の 龐統(ほうとう)が命を落とした。その為、孔明は玄徳の元へ自ら出陣することを決意し、関羽に荊州を託した。

関羽は「孔明殿、荊州はそれがし死んでも守り抜きます」という言葉に不吉を感じた孔明は「北は曹操を拒み、東は孫権と和す」と基本姿勢を関羽に言い残し出発した。しかし関羽の考え方は逆でとにかく孫権憎しで、呉の力を甘く見ていたのであった。


その後劉備は益州を取ったのだが、当然呉が騒ぎ出す。呉が荊州の領有権を主張しはじめた。最初に孔明の兄、諸葛瑾(しょかつきん)が使者としてくるが、劉備と関羽に振り回され徒労の結果に終わる。次に呉の都督 魯粛(ととく ろしゅく)が関羽を宴席に招き、そこで関羽に荊州返還を求めて、承知すればよし、承知しなければ殺してしまおうと、考える。

席上、魯粛は「以前、蜀を取ったら荊州を返すという約束をしたではないでしょうか」というが、薙刀一刀で宴席に現れた関羽は「宴席でそういう話など・・・」とまともに取り合わず、魯粛をおどかしながら船に乗ってさっさと帰って行った。

さらに呉の使者の諸葛瑾が持ちかけてきた孫権の子と関羽の娘の縁談を「わしはな、呉の世子(せいし)など犬ころ程度にしかみておらん。犬ころに虎の娘をやれるか」と蹴った。

また関羽は五虎将軍(ごこしょうぐん)の筆頭に賜りましたと、成都(せいと)から使者で来た費詩(ひし)に「わしが筆頭であとの五虎将軍とは誰だ」と問うと、「張飛殿(ちょうひどの)趙雲殿(ちょううんどの)馬超殿(ばちょうどの) 黄忠殿(こうちゅうどの)でございまする」。すると関羽は「張飛は義弟、趙雲も兄者に尽くして来たからわかるが、馬超は亡命の客将、そして老いぼれとわしが同列とはそんな官爵はいらん!」と激を飛ばした。

費詩は「それは将軍違いまする。将軍は爵位(しゃくい)高禄(こうろく)が欲しくて桃園の義(とうえんのぎ)を結ばれたのではあるますまい。今回の官爵は国を造る上必要に設けられた職制でございまする。私情と国家の職制を混同されたお考えと存じまする」

そう費詩になだめられて関羽は悟り詫びたものの、この時すでに呉の荊州攻略作戦は始まっていたのである。

ここも本当に面白いところであり、関羽のつまらない意地とプライドが見えてきて、この演義では飛び抜けてよく描かれている。

馬超が劉備の配下となり蜀の将となると、関羽は「西涼の馬超と腕試しがしたい」と養子の関平を成都に遣わした。しかし孔明は「馬超は例えば、黥布(げいふ)彭越(ほうえつ)の如きもの、あなたには到底及ばないものであるから、荊州を守ることを第一にお考えくだされ」(黥布と彭越は前漢時代の建国武将。漢帝国が建てられると邪魔とされ追い詰められ、滅びた。あなたはそのような人間とは違いますよとの意味)との書簡を送り返し、関羽は自慢の髭を触りながら「なるほど、さすがは孔明殿、わしの心をよく知っておる」と納得した。

あゝ華容道までの話が台無しになっていく関羽。

生前は歳をとるごとに目下からの人望が薄くなっていったのだろうか。この手の話しは様々な形で書かれている。この空気を読むことが出来ない関羽自身の考え方が死を決定づけたと言っても過言ではない。つまり関羽も死んで亡くなってから神となったわけで、三国時代では、我がとても強くそして腕っ節の強い勇将だったのかもしれない。

「関羽は目下の者に優しく、目上には厳しい。対して張飛は目上のものに従順で、目下のものに厳しい。」と陳寿(ちんじゅ)は書いている。

張飛はわかりやすいが、なぜ関羽はこう評されたのであろう。関羽は馬超を客将と嘲り(あざけ)、小馬鹿にするところをみるところ、弱者という弱者、下級兵士には優しかったが士大夫(したいふ)(文官や官僚)には傲慢であった。その士大夫には同僚も入っており、彼らに対しては自分より下と見て扱っていた。

こういうこともわからずに関羽は糜芳や士人(傅士仁)(しじん ふしじん)を江陵に配置していた。糜芳や士人からしたらば、蜀の君主劉備に仕えているので関羽の配下ではない。

そして孔明は魏と呉の荊州争奪戦に、樊城の曹仁の軍勢を出させるようにし、あべこべに機先を制して関羽に樊城を攻めさせるよう劉備に進言した。

そして樊城攻めの先鋒に糜芳と士人(しじん)を出したが陣に出火したことを怒り、罰棒四十回の罰を加え、先鋒は廖化、副将に関平、参謀に馬良、伊籍を命じ軍を進めた。

関羽は夏侯存を討ち取り襄陽(じょうよう)を難なく取る。

「呉に動きに備えて長江の川岸に狼煙台作るべし」と進言をした王甫がまた、「南郡・公安を守る、糜芳と士人に加えた潘濬(はんしゅん)は利に動かされる人間だから趙累にかえてくだされ」といったが聞き入れなかった。全ては悪い方へと進んでゆく関羽。

このような行為を重ねた為、人望のない関羽のツケが後々に回ってくるのである。

樊城を取り囲んだ関羽だったが、曹仁が踏ん張り持久戦に持ち込まれた。その間当然魏からは援軍が来る。しかしその于禁(うきん)龐徳(ほうとく)が不和で、洪水を利用した関羽は魏軍の大半の兵士は溺れ死、于禁は捕らえ、龐徳は降らずに打首となる。樊城を乗っとった関羽だったが、曹仁の放った毒矢を右腕に受け、偶然通りかかった名医華佗(かだ)に治療を受けられることができた、しかし矢を抜いただけでは治らず、毒は骨まで浸透し、肉を裂き骨を削る荒療治となったが、関羽は平然と肉を食い、酒を飲みながら馬良と碁を打ち続け、華佗は「このようなお方は初めてです」と感服した。

その時呉の大都督呂蒙(りょもう)が病気と偽の情報が伝わると、関羽は呂蒙の代わりの者を聞いた、すると間者は「陸遜」(りくそん)と言った。

その名を聞いたことの無い関羽は侮り油断した。こう思えるのも不思議なことではない。関羽に物申す者が近くには居らず、周りには関羽を慕う者、関平、周倉など取り巻きの太鼓持ちしかいなかったからだ。

そうして呉の陸遜の策により、蜀と魏と呉の重要地点陸口(りくこう)を呂蒙に変わって新任した陸遜は関羽に挨拶に向かった。そこで関羽にお世辞を言った。それは極めてへりくだった言葉だった。関羽は「呉の若輩者、孫権も見る目がないのう」とすっかり目を向けなかった。

これをチャンスと見た呂蒙は易々と狼煙台を襲撃してゆき、占領。治中の潘濬(はんしゅん)は元々関羽を嫌っていたから、全く抵抗せず荊州を乗っ取られることになる。

士人は虞翻(ぐほん)の説得にあっさり降参し呉に降る。次は南郡を守る糜芳、糜芳は糜竺の弟。兄糜竺は劉備が旗揚げ時の古参の将である。兄と主君劉備のことを考えると、そうやすやすと呉には降れないと考え悩んだが、士人は関羽の兵糧遅れの使者を斬り、糜芳を呉に降らせた。これまた虞翻と士人の説得により荊州はあっという間に呉に落ちることになってしまったのである。 そして荊州城陥落の噂は瞬く間に広がり、廖化が荊州が呉に落ちたことを告げると関平は「流言だ」と否定、徐晃が偃城(えんじょう)にいた関平と 四冢寨 (しちようさい)の廖化を追い込み、関羽の本陣へと逃げ込む。関羽もそれは噂だと否定し、傷を治し徐晃と対峙するのであった。


【次回『孤立する関羽』】

☆ここまでお読み下さり誠にありがとうございます。

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